1969年と1970年にかけてのこと

YouTubeでは違法ではないかというようなTVドラマや映画が上がっていることが大いにある。東南アジア人が「警察24時」やドリフもの、「笑点」などの明らかに権利関係を侵してのコンテンツを堂々と上げているから、ドラマや映画もそういうことなのではないかと思わせる。通報すべきなのは分かっているが、面倒臭い。

全編は見ていないが、1969年三船プロ制作・東宝配給の「新選組」を昨日目にした。近藤勇が三船さん、土方歳三が小林桂樹さん・・・なんとまあ、当時でもちょっと老け過ぎのコンビだ。

その1969年。私はまだギリギリながら小学生だった。懐かしい1年。

変声期に入っていたからなのか、それとも元々のことか、憧れの合唱隊に入れなかった。ボーイ・ソプラノが出なかったのだ。それでも明らかに変声期に入っていた「健ちゃん」はファルセットで歌って山内林子先生の推薦を受けた。羨ましかった。私はファルセットでの歌唱法を嫌い(?)地声でがなるように高音部を歌って笑われてしまったのだ。しかしその悔しさから、地声でも高い音程が安定的に、また美的に歌えるようにいう研鑽が始まったのだった!

山内先生は熱血指導で算数の授業を展開、東京書籍の「新しい算数」だったか、教科書の主著者だった岩手大学の教授(黒澤誠先生だったと記憶する。後に岩手大学学長になられた)がどういうわけか我がクラスを直々指導、東北地方の小学算数科の教師たちが教室をグルリと囲んで見学、教授始めその教師ら全員から絶賛を浴びたと後に山内先生が誇らしげに教えてくれた。私はうれしいとは思ったが、その授業のためにつぶされた多くの他教科授業のことを惜しくも思っていた。

山内先生はその熱情を平和教育にも注がれた。社会の授業の時だったか、広島の被爆者の生々しい写真が載った本を私たちに回覧させて、ショックを受けた子が親に言いつけ、山内先生は厳重注意を受けたらしかった。

先生は有名な「喜多方ラーメン坂内」本店が在る喜多方市御清水に住まわれていた。もうきっとこの世にはいらっしゃらないと思う。私の人生の恩人の一人だ。合掌。


1969年。

やはり昨日YouTubeで洋楽の蘊蓄コンテンツで登録者10万を軽く超えるチャンネルがビートルズの「Abbey Road」全曲解説という動画を上げていた。それも1969年制作のアルバムなのだ。

私らが岩手大学教授の直接指導を受けるため山内先生から特訓を受けていた頃、John, Paul, George and RingoはGeorge Martinと共に「世紀のアルバム」で、事実上ビートルズ最後のLPを制作していたのだ・・・そう思って、なんだか胸が熱くなった。

1970年、私は小6がまもなく終わる1月にアルバムLet It Beを先に聴いた。長兄が分厚い写真集付きのアルバムを買ってきたのだ(私には手が出せぬ価格だった)。Abbey Roadはそのちょうど1年後になったと記憶する。日本ではシングルLet It Beの方が大々的に取り上げられたと思う。なにしろ東芝がLet It Beの映像を使って、Bostonというステレオセットを売り出し、日本中のお茶の間にそのCMが流れたのだ。映像と音楽のあまりのカッコよさに私は本当に<ちびりそう>になった(失礼)。特にRingoのドラムが入ってくるところの3拍fill-inの映像と音が卒倒するほどに衝撃的だった。

そして1年後、Abbey Roadをお年玉を使ってようやく手に入れて、Come Togetherで吹っ飛び、Somethingで泣きたくなったりしたが、当時最も感激したのはHere Comes the Sunだった。雪国會津の少年にとって、春の到来を讃えるこの歌がどれほどに心躍らせてくれたことか。春を待望する心が歌、音楽になると、こういうものになるのだと深く打たれた。1月のことだったから、ますます春の日の訪れを楽しみにできた。

中1の1年が終わろうとしている頃のことだった。


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